歴史  
20世紀の幕開けは、東平の幕開けでもあった・・・


別子銅山山林図
   別子銅山山林図  弘化元年(1844)   

別子銅山山林図の東平を拡大 東平の名前の由来

 山林図は、住友21代支配人鈴江伊左右衛が描かせたものです。
 左の写真(黄色の円)にあるように、
「当の鳴」の地名が見えます。
 そして、後に
「東平」という字が当てられるようになりました。
 
「平」という字は、開拓によって平地にされたところ「鳴」とか「平」という漢字が当てられるそうです。
 
「当」「峠」という意味があるそうですが、なぜ「東」という字になったのかは、現在のところ、分かっておりません。
 しかし、
加重忠利(別子銅山記念館3代目館長)さんのお話によると、新居浜の惣開(そうびらき)[銅山関係の物資輸送の窓口]から見ると東の方向に位置することから、「東」という字を当てたのではないかと言うことです。


年表
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 東平地域は、唐谷(からだに)、柳谷(やなぎだに)、一本松(いっぽんまつ)、第三(だいさん)、喜三谷(きそうだに)、東平(とうなる)、辷坂(すべりざか)、呉木(くれき)、尾端(おばな)の各9集落を含めた、海抜750メートル前後の地域を指していました。
 東平時代の幕開けは、第三通洞の開さくを開始した明治27年(1894)からです。
 また東平の全盛期は東延から採鉱本部が移ってきた大正5年(1916)から端出場(はでば)へ採鉱本部が移される昭和5年(1930)までですが、東平時代は、第三通洞が開通した明治35年年(1902)から昭和43年(1968)までの66年間を位置づけています。

東平の人・戸数の推移
データ
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 グラフからみると、採鉱本部が設置されていた頃が最も人口が多く、昭和元年(1926)にピークを迎え、人口は4180人、戸数は930戸にのぼっています。
 しかし、採鉱本部が新居浜の端出場(はでば)に移されるとともに急激に減少していますが、一定の人口を保っています。

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加重忠利さん
 平成12年(2000)11月25日 本校にて収録 
 東平の名前の由来について
                    
 (1分22秒)
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1013KB
原茂夫さん 
 平成12年(2000)7月24日 本校にて収録 
 東平の生活全般について
                 
 (1分37秒)
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1203KB
 東平の土地の利用について
                 
 (1分01秒)
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776KB
石川登貴代さん 
 平成12年(2000)11月16日
観光ボランティアガイド養成講座(新居浜市文化センター)にて収録 
 東平の治安について  (1分37秒) ビデオの再生 
1217KB
 東平への想い  (1分10秒) ビデオの再生 
862KB

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