山のくらし


目出度町の本鋪
新居浜市と旧別子地区との位置関係を表した地図



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今: 目出度町別子本鋪跡    平成13(2001)年7月24日撮影 
  昔:                 明治30年代撮影  別子銅山記念館所蔵


 旧別子銅山は、元禄4年(1691から大正5年(1917226年間を指します。
 愛媛県の県庁所在地である松山市の人口が当時16000人程度であったとき、愛媛県の人口第2位にあたる12000人もの人が住んでいました。 ここには、小学校病院劇場百貨店旅館などがあり、谷間には社宅が立ち並ぶという、海抜1000メートルにも及ぶ地でありながら、生活するには申し分のない環境でした。
 今では、緑に覆われたこの地に、これほどの人々が暮らしていたのかと驚くばかりです。
 しかし、製錬作業の発展により別子周辺の草木は、伐採煙害により地肌が露出し、少しの雨でも洪水が起こるようになってしまいました。
 そして、ついには明治32年(1899)、台風の通過に伴う大雨で山津波が発生。人家や施設に壊滅的な被害を出し大正5年(1917)中心地であった東延(とうえん)から、全施設を東平(とうなる)に移しました。
 開坑から、それまでの226年間旧別子時代といいます。


以前の歓喜坑
歓喜坑

 これは、今日の新居浜市の原点となる、別子銅山で最初に開坑された「歓喜坑」と呼ばれる坑口です。
 
元禄3年(1690)に阿波(徳島)生まれの「切上り長兵衛」が別子山中で銅の鉱床を発見し、知らせを聞いた住友家経営の備中(岡山)吉岡銅山支配人・田向重右衛門(たむけじゅうざえもん)一行が早速別子銅山に赴き調査した結果、世界でも類を見ない大鉱床を発見し歓喜の声を上げたことから命名されました。翌、元禄4年(1691)開坑しました。
 写真は、平成13年(2001)年10月31日に開坑当時のように復元された、歓喜坑です。
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今:新しくなった歓喜坑 平成13年(2001)10月27日撮影 
昔:以前の歓喜坑    平成13年(2001) 7月24日撮影 

露頭

 これは、別子銅山山頂付近にある
露頭(ろとう)です。
 露頭とは、
鉱脈が地表に露出している所のことです。
 歌人、
山口誓子はこの場を訪れ
    『大露頭そこは赤くて雪積まず』
                           と詠いました。

 
露頭
露頭    平成13年(2001)10月27日撮影 
地蔵菩薩鉱石立像
祈り

 このお地蔵さんは、鉱石地蔵と呼ばれます。
 開坑以来坑内の安全を祈願して別子銅山で産出した鉱石よりつくられています。
 鉱石で作られたお地蔵様は世界でこの一体だけだといわれています。
 歓喜坑の入口付近に設置されていました。
 坑夫たちが入坑する際に、安全を願い線香を供えていました。その煙のため真っ黒になっています。
 全長93.0p、面長17.0p、面幅11.0p、肩幅26.0p、裾幅29.0p、額奥行13.0p、台座高7.0pという大きな物です。
         (石川士郎氏:平成11年(1999)11月10日に調査)
 現在は、別子山村高野山真言宗南光院本坊圓通寺に安置されています。
地蔵菩薩鉱石立像 平成13年(2001)8月10日撮影 
高野山真言宗南光院本坊圓通寺蔵 

町
 別子山中の集落の中で、唯一「まち」と名が付くのは、この目出度町(めったまち)です。
 目出度町
は、銅山の中心地として栄えていました。
 明治初期には、重任局勘場住友新座敷(接待館)など銅山の中枢があり、そのほか病院郵便局小学校などが建設されていました。
 
料亭・旅館・食堂・商店などが数多く立ち並び、別子銅山ではもっともにぎわいを見せていた集落でした。


明治期の目出度町
明治期の目出度町  別子銅山記念館所蔵 
小足谷醸造所跡
食

 写真は醸造場跡煙突です。
 醸造所は別子山中に住む坑夫たちに楽しみと安らぎを提供するために、明治3年(1870)に設置されました。
 最盛期には年間100キロリットルの酒が製造され、イゲタ正宗、別名「鬼ごろし」といわれました。鬼ごろしの『鬼』とは、坑夫を指し、鬼のような坑夫でもこのお酒を飲むと酔ってしまうことからつけられたそうです。
 酒の他に味噌醤油を作ったりしていました。
 現在は、この煙突がひっそりとその姿をとどめるだけとなっています。
小足谷醸造所跡 平成13(2001)年10月27日撮影
私立住友別子尋常高等小学校 私立住友別子尋常高等小学校
私立住友別子尋常高等小学校 明治23年(1890)撮影
 別子銅山記念館所蔵
私立住友別子尋常高等小学校 明治32年(1899)撮影
 別子銅山記念館所蔵

教育
 写真の石垣の上に、かつて住友私立小足谷小学校がありました。
 明治6年(1873)に目出度町に開校され、その後別子山村に寄付され、明治22年(1889)この地に新築・移転されました。
 明治32年(1899)3月末の教員数は7人、在籍生徒数は男女あわせて298人でした。
 元新居浜市長荒井源太郎氏、泉敬太郎氏などの諸氏も、この小足谷小学校で学んだ人達です。
 
私立住友別子尋常高等小学校跡
私立住友別子尋常高等小学校跡  
平成13年(2001)10月27日撮影 
目出度町にあった初代の住友別子病院明治20年代 現在も残る高橋の氷室跡
目出度町にあった初代の住友別子病院 明治20年代撮影
 別子銅山記念館所蔵
現在も残る高橋の氷室跡 平成13(2001)7月24日撮影
現在も残る高橋の暗渠跡
医療

 明治16年(1883)目出度町病院が設置されました。
 これが今日ある住友別子病院の起源です。
 診療は無料で、従業員の家族の私傷病など、地域住民の診療も行っていました。
 左の写真は、目出度町から高橋(たかばし)に移された病院へ渡る橋の跡です。
 今は病院の面影はありませんが、当時使われていた氷室の跡が残されています。
 氷室とは、氷の貯蔵庫のことです。
 この周辺は暗渠(あんきょ)と呼ばれる地下水路となっていて、当時はこの撮影場所も暗渠の中でした。
 ところが、明治32年(1899)大水害により全てが流され、崩壊してしまいました。
 現在、住友病院は、新居浜市王子町にある住友別子病院本院の流れを守りながら、市内有数の総合病院として地域医療に貢献しています。
現在も残る高橋の暗渠跡  平成13年(2001)7月24日
開坑200年式典当日の小足谷劇場:明治23(1890)年 現在も当時のままの姿の劇場横の石階段
開坑200年式典当日の小足谷劇場 明治23年(1890)撮影
別子銅山記念館所蔵
現在も当時のままの姿の劇場横の石階段
平成12(2000)年4月3日撮影

娯楽

 小足谷小学校跡と並んである高い石垣の上には、かつて土木課山林課の事務所を兼ねた小足谷劇場がありました。
 明治22年(1889)に建設されたこの建物は、回り舞台もあり収容人員が1000人を越えていたといわれます。
 山神祭が開催される毎年5月の3日間は、京都や大阪から名優を呼んで歌舞伎芝居が行われ、銅山で働く人たちに安らぎを提供していました。
     
現在の小足谷劇場跡
現在の小足谷劇場跡  平成12(2000)年4月3日撮影


東平(とうなる)地区にあった娯楽場
3D体感!

 今は無き産業遺産を三次元立体映像で再現

 東平(とうなる)地区にあった劇場(娯楽場)を当時の設計図より再現しました。

 この再現には、当時の設計図面の寸法(尺貫法)をメートル法に変換するなど、一年以上かけて制作した労作です!

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       (再生に数分の時間を要します。しばらくお待ち下さい。)

   XVL用データ・・・・・・・・332KB

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東平(とうなる)地区にあった娯楽場
昭和43年(1968)撮影: 原 茂夫氏
東平(とうなる)娯楽場を3Dで再現
上記の東平娯楽場を3Dで再現!



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