山から浜そして島へ

山根製錬所

明治20年代撮影の山根製錬所

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  今: 新田橋から望む山根製錬所跡  平成14年(2002)1月5日撮影
  昔:                       明治20年代撮影 別子銅山記念館所蔵


360度パノラマ映像  生子山山頂山根精錬所跡煙突
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平成11年(1999)11月25日撮影
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 山根(やまね)製錬所は、明治19年(1886)に着工し、明治21年(1888)に現在の山根公園のグランドのあたりに建設されました。
 そして、工場横の生子山(しょうじやま)の斜面に約60メートルの煙道を設け、山頂に約18メートルの赤棟瓦造りの煙突を立てました。
 明治23年(1890)には、塩化焙焼法(フント・ダグラス法)による湿式製錬に着手しています。また、同年には広瀬宰平の考えにより、製鉄試験係も設置されるなど、山根製錬所は新規有望事業として拡張過程にありました。
 ここを通っていた住友鉱山鉄道下部線(通称、下部鉄道)には、この製錬所の人員・資材の輸送基地として板ノ元駅が設置されていたほどでした。
 しかし、煙突からでる亜硫酸ガスにより、付近一帯の農作物に被害を与えるようになりました。
 その後、明治28年(1895)煙害と硫酸需要不振により、山根製錬所は廃止されることになりました。
 これに伴い、下部鉄道の板ノ元駅もわずか1年9カ月で廃止されました。 


煙突の全景  
郷土のシンボルタワー

 山根製錬所跡の煙突の立つ山は、生子山(しょうじやま)、通称「エントツ山」といわれ、その煙突は「郷土のシンボルタワー」として親しまれています。
 生子山には、
戦国時代生子山城という城がありました。しかし、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国征伐により生子山城は落城しました。
 その
約300年後広瀬宰平の指令により山根製錬所が建設されたのです。
 また、この煙突は私たちの校舎からも見え、
3年前にこのホームページ制作を開始したきっかけともなりました。
 
100年以上経った今も私たちをいつも見守ってくれているように思います。
山根製錬所跡の煙突(高さ18メートル)  
平成13年(2001)8月9日撮影 
芸予地震にもびくともしませんでした 山頂から見た私たちの学校
芸予地震にもびくともしませんでした 
  平成13年(2001)8月9日撮影 
  山頂から見た私たちの学校(中央) 
平成13年(2001)8月9日撮影 

製錬所
 山根製錬所は、前東京大学理学部の岩佐巌(いわさいわお)教授の意見書に従い、角野村字山根に建設され、明治21年(1888)に完成しました。
 その後
明治23年(1890)には、塩化焙焼法(フントダグラス法)による湿式製錬を開始しました。また、広瀬宰平の方針により銑鉄製造硫酸製造を開始しました。
 しかし、
明治28年(1895)製錬中に発生する亜硫酸ガスが付近一帯の農作物に被害を与えたことにより山根製錬所は、わずか7年で閉鎖されました。この後、銅製錬は惣開(そうびらき)製錬所の一括製錬事業になりました。
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山根製錬所 明治20年代
今:山根公園内のグランドから望む製錬所跡 平成14年1月5日 
昔: 明治20年代 別子銅山記念館所蔵 
山根製錬所の事務所
事務所

 左の写真は、明治21(1888)年に完成した、山根製錬所の事務所です。
 現在は建物は残っていません。洋風のモダンな建物になっていますね。
 また、この場所は山根公園として市民の憩いの場となっており、体育館や温水プール、テニスコートなども整備されています。
 そして、グランドでは秋祭りになると全国的に有名な新居浜太鼓祭りが行われ、周辺の地区から太鼓台が集まり、かきくらべにより大変な人出となります。
山根製錬所の事務所 明治20年代:別子銅山記念館所蔵
別子銅山記念館
 別子銅山記念館
 右の写真は、別子銅山記念館です。
 
山根製錬所の跡地に、別子銅山の果たした役割を長く後世に伝えていく目的で、住友グループ21社の共同出資により昭和50年(1975)6月13日にオープンされました。
 館内には、
泉屋歴史地質・鉱床生活・風俗技術の各コーナーが設置され、展示資料によって住友の歴史別子銅山の歴史を学習することができるようになっています。
開館時間:9:00〜16:00
休館日:毎週月曜日・国民の祝日 (祝日が日曜日と重なる場合は、開館)
     年末年始(12月29日〜1月3日まで) 
入館料:無料
 
   
ツツジの咲く 別子銅山記念館 平成12年(2000)5月撮影 
別子銅山記念館第4代目館長上垣起一さん
上垣起一館長

 左の写真は、別子銅山記念館4代目の館長さんである上垣起一さんです。上垣館長さんは別子銅山の坑内経験者としては最後の方だとお伺いしています。
 私たちが別子銅山記念館を訪れると、ご多忙な中、いつも快く出迎えて下さり、私たちの質問にも分かり易く丁寧に御教授下さいます。
 また、貴重な資料もご提供していただいて下さり、私たちの活動の大きな支えとなっています。
 今回も、初めて公開させていただく資料も数多くあります。
別子銅山記念館第4代目館長 上垣起一さん 
平成13年(2001)12月22日撮影 

BELCA賞受賞

 BELCA賞とは、適切な維持保全を実施し、または改修を実施した建築物のうち、特に優良な建築物の関係者を毎年度表彰し、これを周知させることにより、良好な建築ストックの形成に寄与することを目的として設立された賞です。
 BELCA賞には、2つの賞がありロングライフ部門ベストリフォーム部門の2つがあり別子銅山記念館は、ロングライフ部門を授賞しました。
 四国の建築物ではまだ3件しかありません。
BELCA賞の賞牌
BELCA賞の賞牌  平成14年(2002)1月5日撮影 

大ノ(おおばく)

 大ノ(おおばく)とは、その年に採掘した鉱石の、一番良質な鉱石を清め、定められた寸法に刻み上げられた鉱石を、飾りわらで結束し、古式により毎年元旦銅山守護神大山積神社に奉献(大ノ祭という)していました。
 右の写真は、昭和48年(1973)に奉献された別子銅山最後のもので、鉱石の重量が約300sもありました。
昭和48年(1973)に奉献された大ノ
昭和48年(1973)に奉献された大ノ  別子記念館所蔵 
山根の大山積神社
大ノ祭

 左の写真は、昭和30年代に行われていた大ノ祭の様子です。
 地元の写真家である日和佐初太郎さんが撮影されました。
 新聞など様々なところでご紹介されている大変有名な写真です。
 この大ノは、元旦の未明に端出場採鉱部から社員の肩により大山積の神前に献上しているところです。
 事業の繁栄と安全を祈願しました。
大ノ祭(山根の大山積神社にて) 
昭和30年代に日和佐初太郎氏撮影 
 右の写真は、平成14年(2002)1月5日に山根町にある大山積神社で行われた大ノ祭の様子です。
 大ノ祭は、閉山以来開催されていませんでした。
 それを、別子銅山親友会(別子銅山にお務めであった方のOB会)の方たちが、平成2年(1990)別子銅山開坑300年祭を機会に復活された式典です。
 このようなお祭りは、全国の鉱山でもここにしかない珍しいお祭りです。
山根の大山積神社
大ノ祭(別子銅山記念館前にて)   平成14年(2001)1月5日撮影
山根の大山積神社  現在の大ノ祭は、日和佐初太郎さんの写真にあるように大ノをかつぐ行事はありません。
 写真前方にあるように、
小ノ(こばく)別子銅山親友会会長の藤田重雄さんがお持ちになり、大ノの歌を歌って大山積神社へ奉納します。
 大ノの歌は
5番目まであります。
 まずは、
1番を大山積神社境内下の広場で奉納します。
 その後、
本殿前に上がり小ノを奉納し、2番から4番が歌われました。
 
最後に、またこの場所へ戻り、5番を歌って奉納が終了となります。
大ノ(おおばく)の歌 歌の歌詞を表示
歌の歌詞を表示
大ノ祭の様子をビデオ再生
大ノ祭の様子をビデオ再生
大ノの歌を奉納  平成14年(2001)1月5日撮影
 本来であれば、大ノ祭が終わった後は、四阪島溶鉱炉に運ばれ溶ノ式(ようばくしき)をして、新年の操業を開始していました。
 現在は小ノのみをを奉納していますが、別子銅山が稼業中には大ノもいっしょに奉納していました。
 小ノは、住友家で床飾りとして使われていました。
 大ノ祭を今回初めて見学させていただき、大ノの歌を聴き、昔から伝わる山男の力強い感じを受けました。
 全国に一つしかないこの伝統の行事をこのホームページで多くの方々に知っていただきたいと思います。
山根の大山積神社
写真前方上部が山根の大山積神社 平成14年(2001)1月5日撮影

最新技術を使って

 平成13年(2001)12月21日22日の両日、別子銅山記念館を訪れ、取材をさせていただきました。この日は、四阪島についての写真を中心に、スキャナで読み取り、ディジタル化させていただいている様子です。
 私たちのホームページ制作は、別子銅山記念館の御協力がなければ、こんなにも広がることは無かったと思い感謝の気持ちで一杯です。
 頑張ってみなさんに喜ばれる作品にしたいと思います。
取材活動の様子
取材活動の様子  平成13年(2001)12月22日撮影


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